糖尿病食を検討する
糖尿病食を検討する
安楽死については、カリフォルニア州ではカトリック勢力の反対が強く、自殺を容認しない教義の延長で捉えられていた。
そういう反対をのりきって自然死法案が可決されるということは、カレンのようなケースが今後は医療現場で起こりうるという理解が広まったためである。
この自然死法は州議会で可決されている。
正確には「健康な生存中に書いた遺言・リビング・ウィルの法律」というが、その骨子はカリフォルニア州の住民が健康なとき(肉体的にも精神的にも)に延命医療についての拒否をリビング・ウィルとして残しておけば、人工的な延命医療は中止してもらえるという点にあった。
法律では「成人が末期状態になったときに人工生命維持装置の中止、或いは取り外しを、医師に文書を以って指示する権利を有するのを州法は認める」とはっきり謳った。
この条文を明確にしだのは、世界でもこの自然死法が初めてであった、レ以来、アメリカの国上州以上の州議会が自然死法案を可決している。
これは患者の権利を法的に認めるという端緒にもなった。
東京での第一回安楽死国際会議は、安楽死を求める「生者の意思」は人間同石の権利として認められるべきだという宣言を発した。
それはカリフォルニアの自然死法案の可決を側面から支援する動きでもあった。
日本の安楽死運動はこのときから次の段階に進んだといえるであろう。
つまり、現代医学の人工的な延命装置による生では、埋念や思考をもたない「植物人間」となる場合がある。
しかし、それは人間の「生」とはいえないから、そのような生を拒否するという個々人のリビング・ウィルが尊重されるべきだとの方向が模索された。
安楽死を「苦痛からの解放」という側面だけではなく、「生命維持の拒否」との側面から積極的にとらえる傾向が強くなったのである。
昭和五十一年から五十八年まで、日本の安楽死論争は、この二つの側面がまだ混同されながら論じられてきた。
昭和五十八年十月に、日本安楽死協会は日本尊厳死協会と名称を変えたのだが、それは、安楽死は個人の権利であり、積極的に受けいれるべきだというニュアンスをこめての改称だった。
この「積極的な受けいれ」とは、つまりリビング・ウィルの容認を求めてのことである。
「死」は自らに決定権があり、その意思を生前から明確にしておくという姿勢は、個人が何にもまして尊い、あらゆる規範の上位にある、との認識からスタートしている。
その点では、安楽死は「個人主義を徹底する」という運動でもあった。
論争もその方向に進んだ。
安楽死論争で、容認側に立つ識者はO典礼にしても、植松正にしても、さらに榊原亨にしても、その他の医師や法律家、文化人にしても、個性豊かな、どちらかといえば「個」広架化とはどのような死かを重視する強烈なエネルギーをもったタイプだったことが、論争の激しさと結びついている。
一方で、安楽死容認論が社会的な広がりをもつにつれ、その反対論も大きくなった。
とくに前述の日本安楽死協会がまとめた草案の法制化の動きには、T・M、N・日、M・T、M・Dらが「安楽死法制化を阻止する会」を結成して反対運動を行なった。
阻止する会の声明は、「このような(安楽死容認の)動きは明らかに怪疲現場で治療や看護の意欲を阻害し、患者やその家族の闘病の気力を奪うばかりか、生命を絶対的に尊重しようとする広汎な人々の思いを減退させている」「生きたい、という人間の意志と願いを、気がねなく全うできる社会体制が不備のまま『安楽坪』を肯定することは、実際上、病人や老人に『死ね』と圧力を加えることにならないか」という強い調子のものであった。
彼らには安楽死が強者の論埋であり、弱者を見捨てることにならないか、という懸念があった。
法制化の動きに反対したのは、障害者運動の側にもあった。
Oらの運動は「安楽死」の名のもとに、「障害者抹殺」という事態につながるというのである。
昭和五十年代、安楽死には一般同民からの素朴な反撥も強かった。
死の判断が悪意的に医療現場にもちこまれるのではないか、医師が合法的殺人の権利をにぎることになるのではないか、という恐れである。
また、寝たきり老人などの切り捨てになるのではないかと指摘する人もいだ。
反対論を分析してみると、三つのタイプに分かれている。
一つは、弱者切り捨てへの懸念。
二つ目は、高齢化社会で悪用される恐れがあるとの指摘。
三つ目は、医師に生殺与奪の権利を与えることになるとの不安。
これらのタイプには入らないが、漠然と「死」そのものが自らの意思とは別のところで行なわれてしまうのではないかとの不安もあった。
日本の安楽死論争は、こうした各様の立場からの論争がくり返されて現在に至っている。
その間、脳死や臓器移植といった医学上の社会的なテーマが浮上して、この面からも安楽死や尊厳死と交錯する議論がくり返されたが、実際には医療現場でのコンセンサスを得る状況にはなっていない。
名古屋高裁で山内判決がだされてから、三十年を経ている。
しかし、安楽死論争はしだいに社会的な次元で論じられるようになったとはいえ、その本質を論じる姿勢は依然として混迷の状態にあるといっていいだろう。
安楽死論争の初期の段階にあった「苦痛からの解放」は、皮肉なことに現代医学ではしだいに克服されつつある。
日・Kの書『医療の倫理』には、末期がん患者の九割は痛みから解放されるというし、国立がんセンター外来部長吉森正喜の話によれば、末期患者の九割五分は病みがとれるようになったという。
鎮痛治療が進んできたのである。
したがって安楽死といういい方がしだいに尊厳死という表現にかわったのも、こういう医療現場の実績にもとづいているといえる。
最近になって「苦痛からの解放」を単に肉体的でなく、精神的な領域にまで広げるべきだという見解が主張されるようになってきた。
山内判決がだされたときの名古屋高裁判事で陪席判事だった成旧薫へ現在弁護十)は、「死の権利協会世界連合・第九回国際会議」手成川年十月・車盟で、次のような趣旨の講演を行なっている。
「肉体的苦痛は近時ペイン・クリニックの進歩で、その緩和が比較的容易になっている。
その代わりに良い延命による患者の精神的苦痛が著しく増大してきている。
この精神的苦痛は肉体的苦痛よりもはるかに持続的で、むしろ耐えがたいものがある。
そこで山内判決の[苦痛が見るに忍びないこと]や[苦痛の緩和を目的にすること]に精神的苦痛も含めるべきであろう」この考えはまだ一般に広まっているとはいえないが、安楽死の概念をさらに深めるべきだという立場である。
そしてこの考え方の背景には、「死」総体を自己が決定するという時代へのモラルの変化が垣間見える。
安楽死論争は、さらに多様な側面をもち始めているということになろう。
東海大学付属病院事件ペイン・クリニック(鎮痛治療)は著しい進歩をみたが、それでも末期患者の肉体的苦痛はまだ五パーセントほどの患者にはつきまとう。
緩和のむずかしい「痛み」「苦しみ」の肉体的苦痛を伴う疾病もあるのだ。
それを象徴的に示したのが、平成三年四月に起こった東海大学付属病院(神奈川県伊勢原市)での事件である。
この事件は現在裁判中であり、事実経過そのものが争点となっているので明確な事件の内容は不明である。
大まかにいえば次のようになる。